smtwtfs
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< May 2012 >>
sponsored links
profile
Twitter
new entries
categories
archives
recent comment
links
mobile
qrcode
others
無料ブログ作成サービス JUGEM
search this site.

電子書籍時代

  こんなに堂々と「時代」とうたわれると、はて、どの時代だと頭をかしげたくなるが、周辺の動向は、けっこう騒がしいのだ。

 今日の新聞には、このあとの見出しに「法制化」とある。
 ペーパー時代の法律では、電子化は間に合わず、適用する法律もないから、急いで法整備をしようという話である。

 来るべき「時代」に、良性のものではなく、悪性のビジネスがはびこるので、それのガードという意味だ。
 そもそも、「著作権」とはなにか、という話からなるが、自分の書いたもの、すべてが著作権ではない。どこかの役所が発行した「広報」の記事をこれまたどこかの役所の広報がそっくりいただいて、機関誌に載せた。すると、この行為は、著作権違反ではないのか、いや広報をまねるのは、なにも違反ではない、という論争になる。

 著作権はどこまで及ぶのか。ネットでは、書き込み記事、ブログやホームページの記事などに著作権が及ぶかである。

 定義とかそのボーダーラインが読みにくい。たとえば、これらの記事を知人や他人が「使用」した範囲は、違反ではないが、公人、たとえば新聞記者とか、大学の先生が「勝手に使用」したら、違反に当たる。

 この線引きには、「商業化」か「私物化」が分かれ目であろうか。後者は、私物化されてもなんの利益も生まないが、前者は利益を生み出すと判断されるからである。

 で、ここまでの著作権は、「書いた本人」の「原稿」にかかる権利である。原稿といえ、これが商業化されるには、たとえば、書籍にしなければ、買い手、読み手はいない。そのような原稿を加工し、商品として売り出す業者を、本の世界では出版社という。つまり、「編集」の過程での付加価値がついたから、書籍として通用するという考えである。

 であるから、ここにも権利があるはずだ。音楽業界では、「原盤権」といって、歌手、演奏家、レコード会社などは、作詞家や作曲家が商業化する上で、重要な役割を果たしているから、「原盤権」が認められていた。

 そこで、出版物にも、「出版原版権」という呼称で権利を認めようという動きが出てきた。ところが、漫画家側から「漫画の原画と誤解されやすい」という理由からクレームが出てきた。

 そこで、新たな名称として「著作隣接権」なる呼称で、著者およびそれに係わる出版社の権利を保護しようと、法制化の整備に入ったものだ。むろん、来るべき時代の「電子化」にそなえてのことである。

 書籍の編集や仕様にかかわるものは、その出版物を発行する出版社の考えにそってすすめられるので、元原の著者の影響力からは外れているが、その「編集」なり、仕様がそなわっていなければ、本としての価値がない。

 が、電子化で恐れるのは、それらの付加価値がまったく無視ないしコピーされて、任意に偽物が出回る可能性がある。これがデータ時代の最大の危機で、その違法コピーも簡単であることが、ガードの方法をどうするかにあるのだ。
 ネット上では、たとえば、記事や画像も「違法コピー」の禁止をうたっているが、これを守る人と守らない人がいるので、問題視されるわけである。

 さて、このガードはどうなるか。

tontonboy, 編集おたく

comments(0), -, pookmark

「おしん」が映画化??

  朝の連続ドラマで、記録を残している「おしん」。が、何年前のドラマだったろうか。(調べると、1983年〜84年のドラマで、脚本は橋田寿賀子さんだった。)

 して、このドラマを映画化するといって、立ち上がった人たち。

 すべてはこれからなのだが、その顔ぶれには、監督が「冨樫森」、泉ピン子がプロデューサーまでは決まっているが、子役など主たる役者はまだ未定だ。

 そもそも「おしん」は、山形県庄内地方を舞台にしたもので、その山形の香りはそのままで、鶴岡に出来た「庄内映画村」にオープンセットを組んで、撮影するらしい。おしんの「実家」も築150年の古民家を移築して撮影に使われることになった。

 もうひとついえば、わたしもよく知らなかったが、監督の冨樫氏は、山形県鶴岡市の出身で、 01年、「非・バランス」でデビュー。ほかに「天使の卵」「あの空をおぼえてる」。制作は「おくりびと」「デンデラ」などがあるセディックインターナショナル(東京都)が担う、という。

 山形県内に「冨樫」「富樫」の名字が多いのは、北陸伝いに、関西から逃れてきた一族らしい。その名字を名乗る一人として、冨樫森監督には親しみを覚えた。

 蛇足だが、「おしん」の視聴率は、オバケといわれている。平均視聴率が52.6%で、最高が62.9%だそうだ。いまだにこれは記録だそうだが、ゴールデンタイムのドラマで20%台をたたきだしたと騒いでいる最近の事情とはえらい違いだ。

tontonboy, 編集おたく

comments(0), -, pookmark

反応が早い amazon

 なにかとamazonは話題を提供している。
 わたし個人としても、愛用している口なので、ダイレフトメールが届くのはいいが、生活用品や家電製品までリストアップされると、あれれ、である。
 つまり、わたしの愛用とは、書籍オンリーなのだ。

 お客としての立場と、「売り手」としての立場では違うことも多いが、新刊情報の「告知」をめぐって、いろいろあった。
 専用窓口があり、そこから新刊情報の「公開」となる。新刊予告もこめて、約一月前から告知が可能である。

 そこで、いきなりだが、〈br〉と書いて、なんのことか分かる人は、ネット上のソースを理解できている人だ。入力のときに、「改行」するには、リターンキーを使っているが、ソース上では、この〈br〉がマークになる。ソースの注意点は、スタートと終わりの「指示」である。
 ここに書いているうしろ3行のフレーズを、大きい文字や色の違う文字とするとき、ソース上での指示がなければそうはならない。で、当然、スタートになる「あたま」と終わりになる「しっぽ」に専門記号が入ることになる。

 これを書いたのは理由があって、新刊告知の情報を書き込むにあたって、改行等の指示をソース記号で書けとしているのだ。
 これは「知らなかった」。普通にテキスト文字を書き込むだけで終わりと思っていたが、そうではなく、記号入りでないと、公開される情報は、改行なしのダラダラ文として表示されていたのだ。
 「改行したはずなのに」と思っていたが、〈br〉がなければ、文字コードの変更はされないということである。
 
 くわえて、このとき、新刊の画像もアップしている。ピクセルサイズの規定や保存形式などが問われる。以前は、公開されるまで、数日はかかった。いまは、数時間後、最大でも翌日には情報が公開されている。
 その他、利便性を求めて少しずつ改善されているので、「売り手」としては嬉しい速さと書いておこう。

tontonboy, 編集おたく

comments(0), -, pookmark

タイム・マシン

  時間の旅人、タイムマシンは理論上、作れると聞いたことがあるが、それはそれとして、この呼称、Macでは重要である。

 なにをするアプリかといえば、PC上にあるデータを「バックアップ」してくれる、すぐれもの。自動で操作するので、何時の間にか、データが転送されて保存されるというものだ。
 最近は、PC依存度が高いということから、重要なデータもPC内ということになる。
 もし、その重要書類が消えたたら、二度と再現できない。このような事故を回避するために、この自動バックアップのタイムマシンが開発されたようである。

 これまで、外付けの保存用としてHDDはあったが、これは任意の活用なので、うっかりバックアップを忘れることもある。このうっかりもなしに、カバーしてくれるのだ。たとえば、編集データは、大量データ処理をしているので、もし「うっかり」消えたら、大変なことになる。そのため、自動バックアップの設定によって、最低3個のデータが自動保存されているので、万に一の備えありだ。

 これをPCまるごとの自動保存として、タイムマシンがある。

 嬉しい話であるが、このPCでは嬉しくない。なぜならなば、OSが少しだけ古いので、このタイムマシンのアプリがついていないのだ。むろん、ついているOSもある。そのきわどいところにあるアプリ、ほかにもあるが挙げるとキリがないだろう。

 さてさて、本題ならぬ主たるねらい。

 タイムマシンが将来、できるかどうか。

 もし、できたとするなら、2012年5月5日に、生きていた「おれ」と未来の人と会えるかもしれない。未来の人とは、そう2085年ぐらいどうだ。73年後であるから、5才ぐらいの子は間違いなくその時代に生きているな。

 われわれはとっくに、お墓の中だが、タイムマシンならば、再会もかなう。

 でも、どうなんだろう。夢が壊れるか。

tontonboy, 編集おたく

comments(0), -, pookmark

「他力本願」はだめ

  反語としていえば、「自力本願」であるが、この他力か自力かというはかりにかけると、あまりに「他力」に頼る式の、「人任せ」が多いと感じる。

 仕事がら、人の原稿を読み、意見を具申するが、その過程で、そこまでいうのであれば、「任せた」とか、「もうやらない」とか、そこでキレて、ストップすることがたびたびあった。
 編集人はしょせん、編集人であるから、作者のピンチヒッターではない。いってみれば、協力者、サポーターだ。

 ある日の話。これは編集人、ライター、作者という三者共同で仕事をしていたとして、「校正」の話になった。
 ライターは、「校閲者」を入れると思っていたらしい。
 編集人が軽く見るのは筋違いだというわけだが、編集人の立場からは、「ライター」を入れて作業をしているのだから、原稿の完璧性は、ライターの責任で、それを作者と編集人がしっかり見守るという関係ではないか。

 つまり、校正というピラミッドの頂点はライターであり、その脇に、作者と編集人が控えているという関係ではないか。

 しかし、ライターはそうはいわない。校正責任は、出版社にあるから、「校閲」専門家を入れるべきと主張した。
 頂点に「校閲者」を立てる。

 理屈は通っているが、普通の編集では、「ライター」は存在しない。作者と編集人である。であるから、この間に「校閲者」を入れるという考えは普通だ。

 だとして、ライターがあいだにあるばあい、校正責任は「誰」なのか。

 結論は、「出版社にあり」とし、あいだに誰が入っていてもとなる。つまり、たとえ「校閲者」が入っても、校正最終の責任は出版社、どこまで行ってもそうなるというわけである。

 わたしは原稿書きを商売とするかぎり、原稿は完璧であるべしと教えられた。
 もし、瑕疵があれば、編集者の「校正」を見て、直すということである。
 
 なにが主役かといえば、原稿を書いた本人、作者が原稿の完成度に責任を負えないものは、提出していけないという話だ。

 すると、「校正」は、だれが最終責任か。

 わたしは、校閲者でもなければ、作者以外にないと思っているが、世間のみなさんはどう思われるだろう。

tontonboy, 編集おたく

comments(0), -, pookmark

1000回目のメモリアル

  たまたま見ていると、このブログが通算1000回目、始まって4年と100日になっていることに気付いた。チリもつもれば、こういうことになるらしいが、勝率的計算では、1560日目での記録なので、勝率641厘になる。単純に3回に2回は書いたということになるだろう。

 残念ながら、「毎日書く」ブログではないし、他の「公人的」ブログもそうではない。
 そんなに毎日書けるはずもないのに、ツイスターなどになると、瞬間的記述(つぶやき)はとてもできないので、ほとんど利用していないのと同じである。

 まず、ネットにアクセスであるが、ケイタイでもできるが、まず100%しない。あくまで固定PCからのアクセスにかぎるので、メールも付随して限定である。

 あの小さなケイタイからの親指タッチはかぎりなく無理があり、パネルならぬボードに的確にタッチできないし、そもそも「よく見えない」から、打つ気にもなれない。
 小さい文字が見えないと、そこにあるものをうまく使おうという意欲が生まれないのだ。
 まして、メールでも少し長い用件であれば、キーボードたよりで「打つ」ということしか頭にない。しかも「ひらがな変換」で、「ローマ字変換」はできない。ショートカットも特定のものだけで、限定である。コピー、ペースト、保存ぐらいはショートカットできる。

 さて、当面の心配事はとくにないが、こうやってネット社会中心に動いていると、そのアクセスも、多種多様になる。まず、IDとパスワードである。この数たるやひとつやふたつではない。

 まず、PCを立ち上げて、使用権利のアクセス権を打ち込まねばならない。それが始まりで、以下、このブログ記述も「認識」後の話になる。ブログの数だけ、「認識」を求められる。
 ともかく、煩わしくなるくらいの「数」をいつまでも覚えていられるか、となる。

 であるから、分かっているうちに、その「秘密」をまとめておくようにしているが、それをやると、「ヤバイ」というだろう。
 もし、IDなどが盗まれたら、どうする気だ。

 たしかに、ネットバンクもあるし、秘密性が大事という「認証」もあるので、秘密は秘密として保持していかねばならないが、ある日突然というばあいが「ある」。
 知人で、倒られた方がいて、その後回復したが、このネットアクセス権のさまざまの、記録すべてを「失った」。思い出せないというのだ。
 その結果、更新もできない。そのようなことにならない方法はあるが、PCそのものも使えないハンディとなっては、もう何もいえない有様。わたしもそうなる「可能性」はある。

 そのための準備といって、実際に役に立つかはまったく予測不能である。
 であるから、このブログが突然消えるのは、その予測不能の事態とご承知おきいただきたい。

 

tontonboy, 編集おたく

comments(0), -, pookmark

「原発」の見取り図

  大飯原発の再稼働は「反対」とする側と、政府の判断での「再稼働」で揺れ動く。

 で、その「再稼働」「非稼働」のどっちが正しいのかという世間の趨勢である。

 結論的には、「非稼働」を正論とし、「再稼働」は暴論という雲行きである。


 はて、ここはどうなっているのかだろうか。


 この原発エリアの地元自治体の選挙をやってみると、再稼働反対派が「負ける」という現象がおき、「再稼働」推進派を地元の人は押している。

 後者の現象は「地元の生活がかかっている」という「事情」によるものである。

 

 わたしなりの「俯瞰図」として、原発を考えてみた。

まず、国内にある原発は、「安全か」という疑問には、「安全ではない」という結論で良いかである。

 福島原発は、巨大地震と津波によって、「崩壊」した。このことを差して、原発は「安全ではない」と結論づけられ、「脱原発」の世論に傾いたのだ。

 

 そこで、原発は、「安全ではない」のは、東日本大震災に被災し、破壊されたから、イコール「すべての原発は破壊される危険性がある」というロジックである。

 

 もう少し踏み込むと、「安全」の基準として、過去の地震、震災には「耐えてきた」し、「事故はおきていない」(小さなトラブルはあるが)のは、原発の性能がそれに耐えてきたと見られよう。つまり、1000年に一度といわれる大震災・大津波にのみ、その性能は破壊されるのだ。

 

 これを前提にすると、「1000年に一度のための安全基準化」は、可能か不可能かという科学的水準と、1000年単位のスパンに、それほどのリスクをかける価値があるのか。つまり、1000年に一度の災禍ならば、「仕方ない」とすべきか。この点の判断にかかる。

 

 第二の舞台は、エネルギー問題がある。

 日本の生活基準は、世界有数のランクにあるし、地域差がなく、全国的に平均化されているのは、このエネルギー配分が均一であるからである。

 もし、このエネルギーの総量が、原発廃棄としたばあい、30%目減りすると分かったとして、生活基準を逆戻りして、立て直しできるかである。

 つまり、来るべきライフスタイルの提言なり、あるべきコンセプトが示されなければ、とても「逆戻り」に耐えられるものではないだろう。その覚悟を国民全員に求めるのは「酷」である。

 であるから、原発がダメでも、他のエネルギーによって代替し、補填しうるノウハウが必要である。

 生活の知恵として、たとえば、ガソリン車オンリーから、ハイブリッド、さらに電気自動車とコンセプトに変化が出たように、脱ガソリン思想が、新しいエネルギーを生み出した。

 ただし、これも電気依存という形態は変わらないが。

 

 第三の舞台は、原発所在地の地元の産業活性化が、原発依存によって支えられてきたという現実。もし、原発がなければ、生活の支えを失うという事情がある。

 地域の再生や、地域の産業として見たときの、再生モデルを提案できるかである。

 この例として見ているのが、東日本大震災によって破壊された、沿岸の街・村の再生である。しかし、福島原発の危険エリアは、完全に「再生」の道を閉ざされた。

 ここから、復活のシナリオが生まれれば、それがモデルケースになるだろう。

 

 いろいろ書いたが、要は「原発」は必要か、不必要かという問題だけではない、関連した諸問題をかかえているので、単純に賛成・反対とはならないだろうということである。

 加えて、住んでいる地域、場所が100%安全というロケーションは絶対にありえないということ。危険のリスクはさまざまのところに潜んでいる。

 最近頻発する車の暴走による死傷事故も、車社会であるかぎり、必ず起こる問題で、だからといって、「車反対」という旗印はできない。リスク軽減のための基準、ハードルの設定によって、少しでも安全にする道筋を探るしかないだろう。

 地震列島日本の命題はそう単純ではない。

 

 

tontonboy, 編集おたく

comments(0), -, pookmark