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つかの間の書き込み

  この欄の書き込みは不定期で、一定していない。気まぐれといえばそうなるが、できることなら、一日一回と思っている。が、休みは当然パス。

 時間帯にすれば、間もなく、ゾロ目。
 2010年(平成22年)2月2日午後2時間近。とやや強引なゾロ目。ぞろ目がなんで好かれるのかよく分からないが、ラッキーナンバーに、ラッキーカラーと、なにかにつけて、縁起担ぎが多いのが日本人のライフスタイル。調べたら、節分もそれだ。季節の変わり目の前日を節分といい、この日は邪鬼(鬼)が多いので追い払うというわけで、邪鬼払いの儀式として豆まきなどがある。
 むろん、明日の「かぶり付き」もそう。これは邪鬼よりも、食い気の話になっているのかもしれないが。

 縁起担ぎ、季節の変わり目、このように日本人は昔から周囲の変化とよくフィットするような儀式を執り行ってきたのであろう。
 最近、卑弥呼の屋敷遺跡なるものが発見されて、話題になっている。
 先日も奈良の三山(耳成山・香具山・畝傍山)を見下ろす甘樫丘に登って見物していた。平地の景観は現代になるが、地形は奈良時代のままだから、そこから見る地形・景観は奈良時代人も同じであったという感慨にひたった。
 
 おそらく、卑弥呼の屋敷に立てば、そこから見える景観は、卑弥呼の時代と変わることがあるまい。そうなると、なんだろう、時代を超えての同時代性みたいな感覚が広がるのではないか。
 そこには一度見学に行ってみたい。

 はーい、そこまで。仕事再開。

tontonboy, 小説の作法

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「視感」がいいので

 先月の体育の日も良かったが、今日は何もない日なのに「11・11」の字並びがいいとさきほど気付いた。

 この日はきっといい日に違いないと思って、早速「占い」のmy pageを確認すると、うふふ、悪くないね。「あなたの笑顔によって素敵な出会い」なんて書かれていると、ホンマと思いたくなる。でもね、その先がズッコケだったりして。

 このところ、新規物にバンバン手を付け始めた。なにかがふっきれたみたいで、もう遠慮も躊躇もない。ブルちゃんの勢いで、グイグイだ。
 と、思ったら落とし穴。せっかくプリントしたのに最後のほうの頁を送り損ね。いい気になるとこんなもん。
 今日はその「尻尾」の部分を送ることに。

 この一週間の成果たるや、そう600Pぐらいのプリントはかけたのかな。ぬぬぬ、それ自慢?? そうかもしれない。
 人間、かたちが見えると安心するが、「やってます」「そのうち」というあいまいな返事は不安を煽る。やってるなら、見せろ、ということであるから、ホイホイとプリントした。そうでない人はみんなPDFデータで。
 PDFも悪くない。編集フォーマットがうまく反映するから、プリントものと見た目は違わない。

 昨日、スーパーでバナナを数本買った。バナナブームで品薄、割高といろいろ聞いていたから、こちらはひたすら傍観していたが、余ったらしく、大量のセールでかごに乗っていたので、一袋いただき。

 ところが、肝心のものを忘れた。水だ。朝の珈琲がまずくなるが、仕方ない。もう飲んでるけど。

tontonboy, 小説の作法

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小説の作法(5)

小説の作法(5) 

        

 ◎時代の風に敏感に◎

 文章とは生き物である。それは書き手の意識した方向へ自在に操り、読者のこころを動かしうるという意味において、生き物である。そのかぎりにおいて、文章にはセンスや鮮度、時代性なるものにこだわらなくてはならない。いくら名文と言われていても、明治や大正期の作家の真似はできない。時代は刻々と変化し、したがって読者も変わってくる。

 そしてもっとも意識せねばならないのは「いま」という時代である。時代の隙間、いや奔流にこそ、われわれが書くべきテーマが潜んでいる。これを探し当て、作品にしてこそ、時代のナビゲーターとしての真骨頂があろうか。

 さて、前回までは、ことばの「かたち」や「感動する」ことについて示した。おそらく、「書くこと」に関しての基本的知識はほぼこれによって出尽くしていると考えられる。あとは実践を積み上げるだけの、いわば書き手その人の「個人作業」に依存される。

 そこで、「いつ書けるか」、「書き手にとってのいい状態」というものを考えたい。やはり、コツコツと書き上げる孤独な作業というものは、根気が勝負と言ってしまえば、それまで。しかし、もっと上手な「その気にさせる」方法があれば、なおいいだろう。

 これも受け売りで申し訳ないが、「毎日書け」という指摘がある。まるでこれでは日記ではないか、と最初は思ったものだ。むろん理由があっての指摘なのだが、「毎日」というものが曲者である。しかし、未完の人にとって、この厳しい、地道な作業について、「その日の気分」とか、「思い付き」ではとてもじゃないが続かないというのは分るだろう。おそらく強制的にでもして、「毎日」書くように仕向けなければ、その持続を期待するのはむずかしい、という判断である。

 それとこれがたいせつなポイントだが、「書くコツ」「書くツボ」というものは理屈ではなく、体感、経験がものをいう世界であり、持続させながら、このコツをいち早く知ってほしいという意味もこめられている。毎日書け、とは厳しいものだ。気分や体調によって、選択の余地はないのかとも思う。しかし、職業作家というものは、仕事であるかぎり、締め切り日を守り、毎日、営々と書き続けている。ちなみに流行作家となると日産100 枚という驚異的分量をこなす人もいると聞く。ま、これは例外的だとしても。こんなまねをせよ、とは言わないが、たとえ、1枚でもその日その日に書くという姿勢を貫くことはたいせつであろう。

 この書き続けている原稿について、皆さんはそこで、「完成品」とは思っていないはずである。見直し、書き直しとかの「修正」「訂正」は日常茶飯事である。普通は、500枚の原稿に対して、その4倍、ざっと2000枚を書き、直しに直して、500枚になる。そのち密な作業というのは気の遠くなるような努力ものであるが、しかし、書き手は、「、」ひとつ、「。」ひとつ、おろそかにしてはならない。ましてや字句、用語というものは、そのフレーズにぴったりするまで、品変え、手変えして、「完璧」を目指す職人芸を見習うべきである。その異常なまでの「完璧」癖が「いい作品」を生み出す。

 ある作家はこの、レールを走る列車のような規則正しい生活のために、「仕事場」を設けたり、ホテルに缶詰めになって、書き続けている。実際、締めきりのある仕事はどの分野にも通じるし、これを守れないようだと、プロとは言わない。

 もっともここで話している対象者は、未完の人なので必ずしも厳密に考える必要はないかも知れない。

 ただ、わたしの経験から申し上げて、ある書き手は、ひとつの目標を得て、突如目覚め、そして、突如テンションがあがるという実例を見ている。これは新人の女優が主演と決まって、ダイコン役者を脱皮し、いい演技ができるのと似ているかもしれない。つまり、たとえ、締めきりはないにしても、具体的目標を立てて、その期日に向かって、励むということである。たとえば、「なになに新人賞」に応募するという目標でもいい。「誰々に読んでもらう」という目標でもいい。ともかく、そうした設定によって、確実に、孤独な作業の能率はアップするのだ。

 たとえば、この連載だって、ここにアップするかという目標をかかげている関係で、多少の思考をめぐらし、まとめるようにしている。

 さて、そろそろ「まとめ」についての総括をする順番になっている。

 未完の人にとって、ひとつの作品をモノにするという目標は、壮大であり、たいへんなヤマを登るのに似ている。誰かが目標は高ければ高いほど、やり甲斐があり、励みになる、と言った。小説という世界にトライし、そして見事に読者を得るような完成された作品を仕上げたならば、これはもう立派なプロなのである。そしてそれは間違い無く、その人の財産である。

 伊藤整は、百人おれば、百人の物語があると言った。それは自分では気づかないのだが、一人ひとりがそれぞれ、独自の「小説のネタ」を持っているという意味である。そのことに本人は気づいていないが、自らの足下に光を当てることに気づいたとき、じつは、「未完の大作」に向かっての第一歩を踏み出したとも言えるのだ。「書きたいこと」いや「書くべきこと」はじつは誰もが持っていることであり、これをしとめられるか、否かは自らにかかっている。他人を見たら、それこそ、「小説のネタ」が「歩いている」くらいの認識をもっていいのかも知れない。

 いまWebサイトに掲載されている「小説と呼んでいる作品」について言えば、縷々前述したプロセスの中から生まれた作品と言いがたく、したがって、「自己満足」であったり、「単なる趣味」としてしか映らない。「愉しいからいいじゃん」という気楽ささえ感じられる。まあ、そのレベルで満足している人はそうであってもいいのかも知れない。

 しかし、Webサイトといえども誰が見ているか分らない。この未知の読者に向かっているかぎり、その「作品」には書き手としての多少の責任は、そして不快でないもの、見苦しくないものにする努力を惜しんではならないと思うのだ。ホームページやブログを立ち上げ、そこに掲載することに意義はあるし、いまの時代、誰でも気楽にそうした「まど」をもって、未知の人との「対話」を楽しもうとしている傾向は時代の流れである。でも、やろうとしていることのほんとうのねらいは「誰かとのコミュニケーション」の手段に使っていることになる。単なるメールのやり取りならば、通じることばでやりとりすればいいだろう。
 ところがいったん、「わたしの作品」と呼び、衆目に曝している場合は、主宰者としてしかるべき「責任ある態度」が求められる。昔ならば、大学ノートに埋もれる質のものが、気楽さと自由さがこういう現象を生み出すに至った。いまや1億人が「もの書き」である。いや2000万人ほどか。

 ともかく、この短い「小説の作法」は作法としての世界のほんの一部に過ぎない。論をつくせば、一冊、二冊の本になる分量にもなろう。わたしはそれが目的では無く、分かりやすく、そして、しかも「糸のもつれたような世界」の「糸ほぐし」の役目を果たそうとしたにすぎないので、ほんの「入口」を示しただけである。

 これを機会に本格的に「小説読本」とか、その手の専門書を読み、なにか身につける努力をするきっかけづくりになれば、いいと思っている。

 わたしは自らの仕事を通じて、多くの作品に触れてきた。出来不出来もあるが、それらの作品に対して、一度たりともおろそかに対処したことはない。それぞれに努力した結果がそれである。しかし、その努力もある方向にもう少し踏み出したなら、「いまよりよくなる」と思うと、ズケズケものを言った。
 それによって、本人がやる気をみせるか、つぶれるか、それは分らない。「金を出すから、余計なことは言うな」と言われたときもある。しかし、「作品」は金では買えない。いや、そのことで、仮にGOサインをだして、世に出たとしたら、恥をかくのは本人その人である。こんなまねはさせられない。作品は磨けば、そこそこになる場合と、光ってくる場合といろいろある。しかし、わたしは自分なりに「ある基準」を設定している。これ以下の場合は、申し訳ないが、とお断りする。その基準を超えることが最低の条件である。そして、それは「なにか」と聞かれたなら、おそらく、これまで書いて来たことが、それだ、と言えるだろう。

 わたしはこれからまだまだ未知の作品に触れることであろう。願わくば、ひとつでもいい作品に出会うことを期待している。そして、これは「絶対に本にすべきだ」と言わしめる作品に対して、「ほれぼれするような本」をつくってみたい。これがわたしの編集者として、あるいは、「もの書き」のはしくれとしてつねづね思っていることなのだ。(おわり)

 本稿については、たいへんおおざっぱなことしか書いていない。それでできれば、もう少し突っ込んだ論考をまとめてみたいと考えている。質疑があればむろん受付するので、問いただしていただきたい。

tontonboy, 小説の作法

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小説の作法(4)

   小説の作法(4)

         
  ◎ことばは物まねから入る◎

 「修辞学」ないし「修辞」ということばぐらいは知っているだろう。意味としては、「広辞苑」ではこのように紹介している。

 「1.ことばを有効適切に用い、もしくは修飾的な語句を巧みに用いて、表現すること。また、その技術」としている。2つ目の意味は「ことばを飾り立てること。また、ことばの上だけでいうこと」としている。

 ちなみにこれに「学」がつくと、「読者に感動を与えるように最も有効に表現する方法を研究する学問」が「修辞学」となる。

 ともかく、わたしが縷々、ことばについてあれこれ書いていることはとどのつまり、「読者に感動を与える、最も有効に表現する方法」の模索に過ぎなかった。

 これは重要!!
 忘れないでいただきたい。
 ただ、理屈として理解されても、これが実践に役立つかは別の問題で、多くは実践と理屈はバランスがとれない。ああ、頭では分かっているのに、なぜ、書けないのかと悩むのである。どうすれば、読者や相手に感動を与え、伝えうるか。

 丸谷才一はその話のはじめに、「思ったとおり書け」と指摘している。いろいろゴタクを並べて、へんにプレッシャーをかけるよりは、自然体で机に向い、思ったとおりに書くほうが、まだマシというわけである。
 が、実際のところ、思ったとおりでは、意図する文章に達するかというとなかなかそうは問屋はおろさないだろう。やはり、どこかに「意識して書く」という姿勢がなければ、「うまい文章」は書けないのである。

 修辞の話に戻すと、そのテクニックがどれほどあるかの話になる。「比喩」という表現法もこの中に入る。そして比喩には「直喩」「暗喩」と分類される。これぐらいの話は中学の国語で学ぶことである。
 いざというとき、それを想い出せないのが悲しいかな、一般の人の習性だ。それに多くの人がある目的をもって書くとしても、「仕事以外」で書くというような機会は滅多になく、ある時期、たとえば、「青春時代」とかに、思い悩み、屈折しているがゆえに、突如として、「書きはじめる」のである。日記を書いていて、そのとなりに、「詩のようなもの」を書いてる。それが高じて、「作文」にさらに、「小説」とか「随筆」に発展していく。

 だから、滅多にしないことをしようとするのに、意識するな、自然体で、と言うこと自体に無理があるというもの。ならば、大いに最初から意識していいのである。問題は、書く側の「準備」にある。語彙力もそうであるし、多少の文章を書く練習のようなものも必要になってくる。

 これはひとつの方法であって、誰にでも奨められるものではないが。
 たとえば、既成の作家の小説をそっくり書き写すという方法である。読んでいるのとちがって、「全編」を書き写すというのは相当に時間も忍耐もいるだろう。
 ただ、わたしが実践して学んだことを申し上げると、その作家の「ことば使い」が分るということである。「ことばの言い回し」と言ったほうがいいのかも知れない。その「ことばのうねり」というものが書いているうちにだんだん体感できるようになる。それに加えると、作家の「呼吸」というものも体感する。そのリズムとか、呼吸運動、「間のとりかた」いろいろのものが書き写し作業を通じて入ってくるのが実感できるのである。

 テレビゲームとかゲームセンターでのゲームでたとえば、「レーサーになった気分」とかで遊ぶマシンがある。このレーサー気分が応えられないので再三、そのマシンと遊んでしまう。おそらくそんな体験と似ているだろう。

 ただし、「文章を書く」ことはあくまで自分のオリジナルな作業であるので、他人のものをなぞるのは、いわば「もの真似」の域を出ない。へんに高じると、その人そっくりの文章しか書けなくなり、自分の「個性」が失われる場合がある。
 だが、どの世界でも最初は「もの真似」から始まる場合が多い。職人の世界は、師匠が手とり、足とり、ていねいに教えてくれるわけはない。師匠の一挙手一投足を観察し、見よう見まねで「かたち」が決まってくるのだ。

 そう、わたしは最初から「かたち」のことを言いたかったのである。ことばという「かたち」を自分で確かめないことには、自己流のことばが創造できないのである。その「かたち」を知るためにひとつの方法を示した。それが「修辞」である。

 修辞における「ことばを飾る方法」についても最初は「かたち」である。どういう作家がどんな「かたち」を採用しているのか。ああ、こんな表現法法もあったのか。「わたしなら、こうしたいところだが……」という対話が生れて来る。この場合、「わたしなら……」「ぼくなら……」という自意識が生れてくると、「かたち」から半歩、「中身」に接近したことになる。料理で言うところの、「味」の判定がつくようになったという段階である。レシピは師匠に学ぶ。そして「味つけ」を学ぶ。やがて、「自分にしかでない味の料理」が誕生する。この過程を経て、作家という者は、自己を確立し、自分しかできないオリジナル作品を完成に漕ぎ着ける。

 さて、「広辞苑」の中で指摘されたことばの中に気になるフレーズがあった。「読者に感動を与える、最も有効に表現する方法」とある。その中の「感動」ということばである。

 皆さんはこの「感動」というものをどう定義するだろうか。いったい、感動とはどこから生まれるであろうか。読者に、その感動を伝えなければ、決して「感動」としては受け止めてくれない。いや、読者の個人差があるから、そのつもりで書いても伝わらない、という反論もありそうである。

 しかし、あえて言うならば、「感動」とは不変なもの、誰にでも共有しているような感情の示し方と言っていいと思う。感動に質の違いはない。あると思っているのは伝わっているものが別の性質のものだから、とも言える。普遍的なものとしての「感動」と書いたが、ここに至るにはそれなりの「順序」がある。まず、そのことを示そう。

 「書いている人が感動しなくては、感動するものは書けない。」

 どんな場面であってもいい。涙するシーン、怒鳴り散らすシーン、いろいろある。そこに書く人が、あたかも「神さま」のように居座って、手のひらで転がすように、そのシーンを書ける人はいない。書いている人もいっしょになって、その場面で、泣き、笑い、怒り、そして楽しむのである。この「のめりこみ」なくして、狙ったような「場面」は絶対に書けない。

 これは、登場する人物にも言えようか。書いている人が男でも、女でも、登場人物になりきって、あるときは男に、あるときは女に、あるいは「詐欺師」に、「殺人犯」に、なんにでもなりきってしまわなければ、ほんとうに「最も有効な表現」の形態にはなりきらないのである。

 その意味では、ものを書く人はなににでも変身でき、なににでも化けることができる。ことばは悪いが「平気で嘘がつける人」なのである。この「精神の遊び」のような芸当ができる人が、作られた「構成案」にそって、場面および人物を動かし、完成させるという目的に向かって、周到に進展させる、というのが小説のスタイルといえようか。
 このような書いてしまうと、なにか作家は「犯罪者」のようなものである。あえて言えば、「精神的犯罪者」である。あくまで、現実ではなく、紙の上(いまならパソコンのディスプレイ)で自由自在に物語を操る、「怪しい人物」なのである。

 このへんで一回分の分量に達した。つづきは次回に。

tontonboy, 小説の作法

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小説の作法(3)

  小説の作法(3)

         
 ◎いよいよ書きはじめる◎

 ここまでのところ、簡略に書きすぎたかもしれないが、各論でもう少し詳しく触れてみたいと思っている。構成案が出来上がると、いよいよ書き始めであるが、この場合、文章という問題が出てくる。小説のことばは特殊だと申し上げたが、どう特殊なのか、そしてそのことばによる文章とは、ということからまとめてみたい。

 まず、ことばは、その人の「語彙力」によって決まる。ことばを知らない人は表現することにおいて、限りがある。あるいは稚拙になるかも知れぬ。したがって、これからの人にとって、自分はどれくらいことばを知っているのかを自覚せねばらないだろう。そして、多くの人は明らかにことばが少ない。というより、知らない。
 三島由紀夫は古典によって、あの圧倒的語彙を駆使したとされるが、誰もが自分流の方法で不足することばを補っている。ここではいちいちどうやって補充するのかという方法は示さないが、なんとか不足することばを補う努力はせねばならないだろう。わけても普段の「読書」は語彙力をカバーする格好のテキスト。

 次に、文章というものについて、根本的なところから一度、考えてみることである。その場合のテキストとしてふさわしいのが、世に言う「文章読本」である。すでに紹介したので繰り返さない。

 文章は、単文より複文がいい。これは、大衆小説、推理小説など、「読み物」としてのおもしろさだけをねらったものに、この手の文章が多いことと関係する。文章より中身だ、おもしろさだと思っている人は、その分野を極めるのがいい。しかし、少しでも味のある文章を書きたいと思っている人ならば、多少の訓練、勉強は必要であろう。

 最初に複文と申し上げたのは、単文よりやや難しくなるということと、「いまなにを書いているか」これを冷静に判断して書いている姿勢が感じられるからである。「意識して文章を書いている」というのは、最初のうちはたいせつなことで、「勢いで書く」「無意識に書く」という芸当はもう少し極めてからの話である。

 ここに二人の作家の実例を示す。

 ひとりは井上ひさしの「古里古里人」から、

 井戸のすぐ近くに塀が立っていた。塀の向うは、なかなか小粋な二階家で、二階のひとつに灯が入っている。その灯のこぼれを役立てて、古橋は小屋の入口の柱に打ちつけてある木の札の文字を読んだ。

 あと一人は、吉村昭の「関東大震災」から。

 庶民は恐怖に駆られて、流言をそのまま警察署や憲兵分隊に通報する。その度に官憲側も調査し、通報内容が全く根拠のないものであることを確認したが、通報が度重なるにつれて官憲側でも事実かも知れぬという疑惑をいだき動揺の色を見せはじめていた。

 井上ひさしの文章では、「木の札の文字」を読ませるために連ねているものであり、ひとつの流れを感じる。また吉村昭の場合は、庶民と官憲側との違いを対比して、その動きを追っている。いずれも、ひとつのまとまりとして、文章は連続し、次なる文章へと繋がる。
 この「ながれ」という意識と、文章は「一区切りつくまで書く」というのがたいせつである。この地道な積み重ねが、大きな流れを生み、そして意図する「小説空間」が形成される。少なくとも、文章とは「意識して書く」ということであり、間違っても「勢いで書く」とか「無意識で書く」というものではない。これからの人はまず意識することである。そうすることで、「自分がなにを書こうとしているか」「何を書きたい」かが分かってくる。

 書くに当って、たいせつなのは対象物の描写である。この描写の方法はいろいろあるだろうが、わたしはわかりやすい表現法として、いつも「望遠鏡と顕微鏡」という言い方をしている。
 対象物を細部にわたってきっちりと書くことは、小説ではあり得ない。設計図があり、そのとおり作る建造物などでは、細部の積み重ねによって、全体を作り上げて行く。しかし、小説は、対象物に対して、「おおざっぱ」な部分と、「微妙な細部」をちりばめることによって、ほぼその対象物の実像をとらえることができる。むしろ、ここでのコツは「おおざっぱ」はどこの部分で、「細部」はどこかという点である。ある女性を描く場合、どう書いたら、相手に伝わるか。むろん、隅から隅まで書くはずもない。この描写ということには経験と、やはり「場数」が求められる。書き慣れることによって、慣れが生じる。それにその部分の専門的知識や経験があれば、書きやすいのは当然である。医者や弁護士出身の作家がいるが、かれらにとって、専門的にわかっている場面、状況は描きやすいからだ。そういう題材をつねに求める。

 さて、描写もことばを使う。この場合、選択することばはいくらでもある。文法的に分けると、名詞・動詞・形容詞・副詞、形容動詞などに分けられるが、おもに小説でしか使わないのが、「形容詞」である。新聞記事とか、会社の報告に、「形容詞」はいらない。事実を事実のとおり伝えることばを選ぶだけである。

 こんな話がある。かのシェースクピアは恋人に恋文を書くに当って、その美を誉めたたえることで気を引こうとした。その結果、美女に対する形容は、「星の数」ほどあったというのである。「あなたの瞳は……」「あなたの口は……」まあ、いろいろあるだろうが、ともかく、書くことにことばを駆使したのである。

 そこで、「形容詞」である。

 たとえば、「太陽は眩しい」とか「太陽は美しい」では、小学生の作文である。もっと太陽を形容することばを付加しなければ、その実態は伝わらない。このへんのことで丸谷才一が「文章読本」で言ったことは、たいへん参考になるというか、含蓄がある。

 つまり、「もっとおおげさに書け」と言っている。いわゆるデフォルメ。あるいはオーバージェスチャーとでも言うのだろうか。
 対象物を引き寄せて、描く。その形容は「おおげさである」べし、と言うのだ。その根拠とすることも書いている。つまり、ことばの意味は伝わるようで伝わりにくい。繰り返すとか、多少、過剰に駆使しなければ、相手に伝わらないというのである。むろん、「控えめ」の表現ではなにも伝わらない。日本人はストレートに自分の感情を表現しないとされる。それも文化のひとつではあるが、他方、外国人はどうか。言いたいことをはっきり言う。「アイ・ラブ・ユー」である。日本人は好きなのか、嫌いなのか、それほどでもないのか、なにしろグスグズしている。これは小説ではあってはならないのだ。はっきりと、鮮明に言うこと、書くことである。

 みなさん、「修辞学」というのを御存じだろうか。これを始めると、長くなるのでこの先は次回に回したい。

tontonboy, 小説の作法

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小説の作法(2)

 小説の作法(2)


 ◎構成案のつくり方◎

 前回までの話は、いわば序章と言えるべきもので、これからはやや専門的になってくるだろう。しかし、将来、小説家を目指す者にとって、これぐらいの知識は身につけておいても損はない。よく、「小説読本」というものが市販されているが、この類いをまったく読んだことがなければ、せび、一度目を通していただきたい。こちらよりずっと高度で上品であるが、書かれている意図はほぼ同じである。お勧めは、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一、中村真一郎といったところだろうか。ほかにもあるだろうが、どれか一冊読めば、いいと思う。

 さて、「構成案」の作り方について。呼称はいろいろあって、「創作ノート」とか、「創作メモ」とかされているが、いずれも同じ質のもの。これはこれから書く作品のための「とらの巻」や「レシピ」のようなもので、作品としての出来・不出来はもっぱら、この「構成案」にかかっていると言っても過言ではない。

 通常、少しぐらい書いた経験のある人は、「あっ、閃いた」という意味のことを言う。このアイデア使ってみようかと思う。このとき閃いたものというのは、この「構成案」のほんの一部であって、全部ではない。そこで、その閃きをたいせつにしようと思えば、さらに全体にむかって思考を巡らせるという作業がいるだろう。この場合、思考することに、構成案としてのヒントがある。

 分かりやすくするために、「1+1=2」という算数を使うが、世間はおおむねこの計算式で成り立っている。いや、現実世界はすべてがこれだ、と言っても過言ではない。しかし、小説の世界ではこの数式を相手にしない。あえて数式に置き換えると、「1+1=X」となる。2以外の答えがある、というのは理屈に合わない。しかし、このXという答えに、小説としての可能性を秘めている。理屈どおりの数式では、商業用のブレゼンとか、新聞、雑誌の類いが理屈どおり処理される。したがって、構成案としての第1条件は、「X」である。

 次に、私はこんな考え方をしている。たとえば、「シドニーオリンピックの誤審とかけて」「安倍元首相ととく」「その答えは、判断が甘い」というなぞなぞ遊び。思考の飛躍と言うべきか、柔軟性のある思考と言うべきか、論理だてて考えているようで、じつはこうした飛躍、変化が間にはさまっていることが、構成の必須とすべきもの。前述の数式から導かれるものは、すでに答えがはっきりしている。ある人物の行動が、先に「読まれてしまう」ようでは、おもしみもなにもない。

 第3の用件は、やはり、「流れ」である。よく、「起承転結」とか言う。ひとつの全体の作り方としての見本である。小説に必要な用件は、クライマックスとされる「盛り上がり」とそして「終焉」である。つまり、波としての上下がなくてはならない。全体を大きな「流れ」として見た場合も、小さな章立ての中にも、波の流れがある。これらが集合体としてまとまったとき、「小説」が出来上がってくる。もちろん、波そのものは、前述のように「有機的関連性」があって当然。そして小さな波には、思考の飛躍といった、ちょっとした「しかけ」が重なっていないと、波ではなく「平坦」になる。

 この全体のプランが固まったとき、もっとも大切なことはこの全体を構成するアイテムである。

 1.時代、時間、環境などの背景に係わること

 2.人物(年令・性別・性格など)

 3.出来事・事件・事柄などの動きのあるもの

 この3つの要素がからみあって、ひとつの空間を作っている。この基本事項はしっかり抑えておきたい。

 そして、当然ながら、ここにある空間は「変化するもの」である。この変化については、「過去・現在・未来」という変化、「現実・非現実」という分け方、あるいは「現実・夢」という設定もあろうか。

 書きはじめに最初に陥るのが、この変化を表現できないでいることである。現在という「今」を起点にし、どんどん時間をすすませる。その間にクライマックスとか、盛り上がり、盛り下がりなどの変化をつける。とどのつまり、時間を追っかけているわけだ。人生とはそういうものであり、自分の人生にこそ、小説ありという考えに立つと、この時間軸の推移が書き方の基本的パターンとなるだろう。しかしながら、小説とはそんなに単純なものではなく、現実の進行の間には、「過去」に戻ったり、「未来」に進まなければ、小説空間が「味わいのあるもの」にできない。

 自分の書いている「日記」、「新聞記事」「雑誌の記事」など普段、目にするものはこうした時間推移をベースとしている。これらはいくら書いても小説にはなりにくい。(「日記小説」というスタイルがないわけでもないが)

 書きすすめながら、初心者が、「過去の話」を導入したり、「未来」に飛んでいくと分るが、「流れ」が微妙に違ってくる。これはよほど「書き込み」が必要とされるテクニックであり、多くは失敗を繰り返しながら、身につけていく「力」である。そして、それらがじつは「構成案」の中に盛り込んでおくことが、いい作品を書くコツということになる。

 むろん、中には「書きながら」考える人もいるだろう。十分な構成をつくらなくても、少しずつ、世界が見えて来る場合である。が、この手法は長年の経験をもつプロが使うものであって、これからはじめますという人には手に負えない方法なのだ。

 こうして見ると、「構成案」というものはすこぶるやっかいなものであり、単に思いつきだけでは「全体」を考えつくわけにはいかないしろものである。順番としては、ここまでがいわば、スタートラインである。しかし、このラインに立つランナーはそれだけでは走らせてくれない。というより、走られないと思う。

 それは次回に。

tontonboy, 小説の作法

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小説の作法(1)

●ブログの移転のため、これまでアップしていたサイトを削除します。それで、こちらに移管します。しばし連載となりますが、ご容赦を。


 小説の作法(1)


 ◎最後まで読めるか◎

 「小説の作法」というタイトルでまとめるには役不足というお叱りを受けそうであるが、あえてWebの愛好者ために、なにかしたためられたらと思って、連載を決めた。
 さて、ここに登場する著者とは、まだ未完の人という設定である。書く意欲をもち、かつ書く事が愉しいと思って、自らホームページに作品を載せているような人と思ってもらったらいい。こういう人たちのことを、世間はマニアックな人と言うか、素人と切り捨てるか。おそらく切り捨てられる覚悟の人が、営々とHPを更新し、見知らぬ読者に向かって、吠えているのであろう。そのことについて異義をはさむつもりは毛頭ない。しかしながら、この中にも将来の小説家としての卵は交じっていると思われる。その宝の山を探し当てるのはよほどの忍耐と苦労がともなうのは言うまでもないこと。
 世間で言う、いい小説、いい作品とはどんなものを差しているのであろうか。結果から先に見ると、売れている本、名の通った作家のもの、ということになって、限定されてしまう。はたして、それしかいい作品の見極め方はないのだろうかと悩む。
 その場合、もっとも手っ取り早い方法として言えることは、その作品が最後の「完結」までともかく書ききっているかである。途中のものはあくまで、途中であり、これについてなんらかの評価を下すのは難しい。だから、最後まで書いて、しかも、ここがポイントだが、「最後まで読ませる」ということがまず、第一の条件である。
 最後までと書いたが、それは付き合いでそうしろと言うのではなく、読ませるだけのものがあったから、最後まで読めた、とわたしは見ている。したがって、途中下車してしまうものはすべて失格とみなす。ここで多くの作品がふるいにかけられるだろう。中途半端はなにごともいけない。あるいは作者が言い訳をし、「わたしは短編しか書かない」「長篇に挑戦中」というたぐいも認めない。出来上がったものだけをアップするなり、紹介すればいいのであって、書き手の事情とか、好みにまでは付き合っていられないのだ。

 次に気になっていることは、文体ないし、文章の質である。ここで多くの未完の人に申し上げたいのは、事務用の文章、ラブレター、その他いろいろの文章は使用目的によって書き方が違うということである。そんなことわかっていると言うだろう。しからば、小説の文章としてはどうなのだろう。

 ここで陥っている誤解ないし失敗は、「普通の文章」を書いているということである。普通でないとはどういうことか。普通に対して「特殊」という反語がある。そう、小説の文章は特殊であると定義できる。この特殊性について説明するにはだいぶと時間がかかる。ただ、ポイントとして言えることは、普段使っている「ことば」をすべて捨てる、ということである。捨てたならば、なにもない人は書く必要はない。捨てても捨て切れないもの、それが小説のことばとして通用する。

 「小説に説明はいらいない」とよく言う。この意味は、場面、状況、感情、その他のすべてに対して言えることで、書き手はそこのところを決して「説明」してはならない。説明するということは、日記と同じで、たんに日常の風景が動いていることである。そこには「創作性」というものがまったく味付けされていないということになる。説明しないで、なにかを書くという意味は、なかなか説明しようにも説明がつかないことであるが、あえてことばで言えば、「独自の空間を描く」ということである。この空間、3D(三次元の立体映像)の世界に近いが、これを図ではなく、「ことば」のみによって描くのはかなりの力量を求められる。ましてや、そこで感情をもつ人間を描くことはさらに難しい。しかし、ここを克服しなければ、幾ら書いても「説明」の域から脱しないのである。

 さて、説明から脱した人に申し上げたいのは、この3Dになった空間、登場人物について、さらに注意しなければならない、いくつかの注意点がある。それは「関連性」という「つながり」のことである。この「つながり」こそが小説としての牽引力となり、ダイナミズムを生み出す。「関連性」とはなにか。これは、別の言い方にすると「有機的関連性」となる。これはなんだ。
 平たく言えば、「つながるべくしてつながっている関係」である。人工的、あるいは作為的つながりを「有機的」とは言わない。いわゆるぎくしゃくしてくるのである。せっかくの3Dが壊れてしまう。
 この関連性ということを意識すると、作者は「なにを書きたいか」「なにを狙っているか」、「この作品のテーマはなにか」ということがおぼろに見えてくる。これを「定着」と言う。写真の定着と似ていて、ピンボケは失敗である。ピントがしっかり合ってくることによって、その3Dの顔を読者は認識できるのだ。これはたいせつなことで、外国の作品がおうおうにして、「定着時間」がかかるのは、登場人物のイメージが流れ、名前すら覚えられないという初歩的時間の浪費があるからである。定着は早ければ、早いほど、作品のテンポはよくなってくる。だから、登場人物が少ない、たとえば、「一人称小説」は楽なのである。「三人称」は出てくる数によって、定着時間が違ってくる。

 ここまでクリアできてくると、作品としてのツブはかなり見えてくる。
 そこでいい作品とはに戻ると、これは一言で言うと、「流れがいい」のである。流れ?  物語の展開のことである。物語を展開させるには、作者が意図して3Dの空間を動かすことにほかならない。この動かす場合に、「有機的関連性」を指摘したように、必然性というものが問われる。ということは、作者は、作品ひとつにつき、「構成案」というものをもっていなければならない。舞台で言うことの「脚本」である。プロになるとどうやら、「勘」でわかるらしいが、未完の人には最初から用意されるべき材料である。
 「構成案」というものはどうつくるか、この話は次回に。(つづく)

tontonboy, 小説の作法

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