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エッセイの作法(1)

●先の「小説の作法」で示したとおり、サイトの移管により、こちらに「エッセイの作法」を移します。連載形式としますので、少し時間がかかります。
もし、興味のおあり方はお読み下さい。


   「エッセイの作法」(1)


◎なぜ、書きたくなったか◎

 この表題はおそらくもっとも身近なものだけに、誰もが一度や二度は試みたことがあるのではないと思われます。だから、そんなこと言われなくても分かっているという人は読まなくていいのです。

 でも、わたしから見ると、はたしてそうかな、本当に分かっているかな、と思います。

 書きたいと思うのはラブレターでもメールでも理由は一つ。伝えたいという気持ちがあるからです。相手に対して、伝えたいという理由が文章を連ねているのです。ただ、ここは「私信」にしてしまうと、二人にしか分らない合図や記号が入ってしまい、他人がのぞくのははばかれるということになりますから、始めようとするのは「私信」ではなく、「公信」のほうなのです。

 「書きたくなった」理由とはなにかですが、理由があるから、書いてしまうというものでもありません。自分では伝えたいことなのだと思っても、「伝える価値」があるかの判定をしなくてはなりません。だから、「書きたい」=「書く理由」にはなりません。

 それでは、そんな価値あるものとしての「公信」というのはどんなものになるのか、ということですが、それは、自ら「発見したもの」、つまりオリジナルであるということなのです。

「夜更かししては健康に悪い」ということを書きたいと思っても、そこには、健康についての「常識」があるだけで、それを繰り返して書いても、価値はありません。メールなどで彼氏にアドバイスするという意味では価値ありですが、エッセイとしてのテーマにはならない。自分が発見したという「思い込み」も問題です。じつはとっくに「他人」が書きしたためている場合があるからです。ことわざ、名言などはそれらの類いで、最初に言い出したときにはきっと価値はあったでしょう。「信じる者は救われる」という具合に。

 そうなってくると、たとえエッセイひとつでも、さらさらと書くという具合にはいきません。

 そこで、もう一度、最初に戻って、「なぜ、書きたくなったか」をよく考えてみて下さい。さきほどの彼へのアドバイスは、その底辺に「彼への愛」があった。だから、アドバイスはそれを言う「手段」として使っています。彼への愛というものは、地球上、さまざまの愛があっても、「わたしだけの愛」と言い切ることができるでしょう。それこそがオリジナルです。では、このオリジナルをどう表現するか、「わたしの愛」とはどんなものかを考えてみることです。そこから、初めて、「書きたい」という「窓」が開きます。

 きっと、彼女は、自分の彼への愛について、その純粋さ、深さ、熱烈ぶりを伝えたいと思うでしょう。思いこがれている気持ちを言葉にするのは難しいけれど、そうやって「苦戦」しているうちに、愛は言葉を通じて、「かたち」になり、実態をおびてきます。楽しかったこと、苦しかったこと、彼の一挙手一投足が思いだされ、胸苦しくなるものです。そうやって、自分の気持ちが「伝わった」と思えたとき、あなたはそのテーマを書き切ったと言えるのではないでしょうか。

 じつはひとつのテーマについて、「書き切る」「言い切る」ことが、エッセイの完成地点でもあるのです。言葉足らず、あるいは余韻を残す、そういう方法もあるが、これはどちらかというと、小説などの手法で、エッセイはフィニッシュ感がもっともたいせつなのです。

 ですから、書きたいことはズバズバ、ズケズケ言うことが大切で、へんな遠慮は入りません。二人の間に起きた出来事、思い出は、実際に起きた「事実」。この事実に対して、自分が思っていたこと、相手が思っていたこと(自分から見れば、想像になるが)がそれぞれ入り乱れることによって、出来事や思い出が蘇り、リアリティを増すことでしょう。ただし、ここでの注意点は、「事実」をなぞるだけでなく、事実の向こうにある「真実」、ここでは「二人はきっと愛しているんだ」という、その真の姿を求めることなのです。むろんそうでない場合もあるでしょう。「擦れ違いだった」「誤解だった」「思い違いしていた」いろいろある。もし、それが「真実」とするなら、それを「書き切る」のです。

 そうやって、自分の「伝えたい」何かがはっきりすれば、そのエッセイはかなりの完成度をもつものと思われます。ともかく、最初のハードルはこれによって、クリアしたということです。

 このつづきは次回に。(つづく)

tontonboy, エッセイの作法

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エッセイの作法(2)

   「エッセイの作法」(2) 

        
 ◎どれぐらい下準備したか◎

 すぐれたエッセイは、かなり下調べをし、それを元に書いている、と言われています。司馬遼太郎のエッセイを読んでみると分りますが、読んでいても、その感覚は伝わってくるものです。ただ、自分が調べたことを見せびらかすのはよくありません。わたしが目安と思っているのは、この「下調べ」の活用度は2割から 3割ていどにおさえること。残りは「隠していている材料」でいいと思われます。どうしてこういうことになるのか、「下調べ」はあくまで裏付けであり、事実という部分が勝っている。書きたいのはこれらの事実の向こうにある「真実」ですから、その程度でいいのです。

 わたしが新聞記者の時代は、その鉄則が通用しました。よく言う、5W1Hの原則を踏まえて、取材したことを100%使うのではなく、その半分以下であること。間違っても120%とか、200%にするのは「ちょうちん記事」、ゴマすりというわけです。

 「下調べ」では、最近よく使っているのがインターネット。ここにはありとあらゆるジャンルのHPがあり、根気よく調べれば、いい情報に巡り合えます。うろ覚えだったものが確認できたり、あるいは新しく知る事実もあるでしょう。まったく知らない世界はとくにそうです。知らないだけに、すべてが自分にとって「発見」になります。だれかが言っていますが、インターネットは自分の書斎に、巨大な図書館か百科事典があるようなもの、なのです。こいつをうまく活用しない手はありません。

 「下調べ」でいまひとつ大切なのは、「自分の目」です。よく刑事もののドラマではベテラン刑事が「現場をよく見ろ」と言っています。その現場を自分の目でよく見るということで、新しい発見とか、見落としをカバーできるのです。インターネットというのは、いわば別の誰かが調べたこと、知っていることを自分が間接的に教えてもらっていることなのです。これを間接ではなく、自分の目で確実にものにすることも、書き手としての最低の仕事でしょう。前述の司馬遼太郎は、執筆よりもこの下調べに相当の時間をかけた人だと思うのです。

 ところで何ごとにも「落とし穴」があります。事実は、「真実」を反映していない、ということです。事実を積み重ねているうちに、自分ではあたかもそれが真実であると、鵜のみする場合があります。これは新人よりもベテランが陥りやすい「落とし穴」なのです。決めつけてしまうというか、そういう経験とか、場数を踏んでいるうちに、なにも考えず、そいつはこうだ、と自分から決めつけていることです。いったん、決めつけてしまうと、あとは、それに合わない事実はハネのけてしまう。ですが、理に合わない事実のほうが、ほんとうの真実である場合もあります。最初にへんな自意識とか、偏見をもたないこと。太った人は、タフでない。(かぎりなく真実であるが)しかし、そうでな人がいないという根拠にはならないのです。

 実際にこういう仕事というか、執筆を始めてみると分りますが、これらの事実に振り回されるのです。いろいろ材料は揃ったが、しかし、ここには本物と偽物が混じっている状況が必ず出てきます。これらを前にして、じっくりと吟味する、真贋を確かめる作業をしてから、使えるものだけをチョイスしていくわけです。下調べに時間がかかるというのは、すぐに能率よく、この事実ばかりを拾い集めるというわけにはいかない。それに、間違った事実を拾って、論理を組み立てると、出てくる「結論」は方向の違ったもの、つまりはとんでもない間違いを犯すのです。それでは原稿そのものがパーになるだけでなく、執筆者の見識が疑われるのです。

 エッセイと小説の違い、フィクションとノンフィクションの違いは、他方が、書き手の想像だ、で済まされることが、もう一方では、作品としての最大の欠陥になるのです。それぞれエテフエフがあるでしょうが、自分の書きたいものと比較して、どちらの分野がふさわしいのかもよくよく考えてみないといけません。前述の彼と彼女の愛情について、エッセイが少なく、小説が多いというのは、真実の「姿」というのがどうもはっきりしない、そこを極めるのには書き手の想像しかないんだという認識だからと、わたしは考えています。そういうテーマをエッセイで片付けようとすると、週刊誌のゴシップとか痴話がらみになるというのは、その証明かもしれません。

 その意味で、エッセイにふさわしいテーマ、料理しやすいテーマというのはあります。また、両方から切り込むというテーマもあります。ある歴史上の人物の自伝というのは、どちらの側から書いてもおもしろい、というのは、事実は事実として、しかし、過去の歴史なんだから、現代人が想像して、おもしろおかしく書いてもいいという理屈でしょうか。

 だから、前回のことを踏まえていくと、自分が書きたいと思ったことは、エッセイにふさわしいか、それとも想像を混じえた小説仕立てがいいかをよく考えなければなりません。よく「事実は小説より奇なり」と言います。これは、創造性豊かである小説などが、おもしろいという判定と、いやいやそうではない、実際の生活のほうにこそ、小説にはない、もっと深い複雑怪奇なものが隠されているという提言でもあります。それゆえに、よほど慎重に下調べをしないと、この複雑怪奇な真実を見落としてしまい、平凡な内容になってしまうということなのです。

 こんなふうに書いていると気づいたと思いますが、エッセイって、簡単に書けないな、という実感ではありませんか。書きやすい、身近であるということよりも、逆に、もっと難しいな、と思ってもらうほうが、これから書いてみたいと思う人にとっては、いい心の準備ではないでしょうか。

 こころの準備ができたところで、ここでもコトバの問題に入りたい。日常の身近な出来事を描くのであるから、それほど問題ではなかろうと思っている人には、ちょっと目をこすって見ていただきたいところです。

 もとより、文章というのは簡潔・明瞭を基本としているが、どういう表現が分かりやすいのか、理解しやすいのかは、じつはよく分かっていない人が多いと思う。過日、歳甲斐もなく、若い人の「チャット」の中に入ろうとした。実際、見ているだけでなに一つ発言していない。相手も、こんなオジさんは相手にしない。ただ、見ていると、普段の会話と違うのである。簡略に記述しているし、それがほとんど記号化されているため、はて、なんのこととしばし時間が止まる。しかし、ここで会話している人たちはそれが普通という、常識だから、会話がつながる。インターネットやメールでの新しい会話文化と言ってもいいだろう。だが、ここでは、いわば条件付き、限定されているエリアである。

 で、わたしたちがこれから書こうとしている世界は、そういう限定つきではなく、不特定多数でしかも、ほとんどの人が理解し、伝わる文章でなくてはならない。むろん、自分の個性は尊重されるが、チャットのようなわけにはいかない。

 それは次回に。

tontonboy, エッセイの作法

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エッセイの作法(3)

   「エッセイの作法」(3) 

     
 ◎表現のイロハ◎

 エッセイにまで、言葉のルールがあるのか、邪魔くさいと思われるかもしれない。「岩波新書」というシリーズがある。テーマはいろいろあって、それぞれの分野の人が書かれており、ここにあるすべてがエッセイの文章だと言ってもいい。というのは、ここには独自の専門分野がある。ときには専門用語も使われるだろう。が、言葉の組立て、字句の用法、漢字・ひらがな、表記については、一定の基準化されたもの、スタンダードがある。
 よく、こんなことが起きる。大学の先生は文章がヘタである。その分野では専門家なのだが、それを学生とか研究者に向って書くぶんについては、表現のどうのこうのということより、自論を発表する場として言葉を使っているだけに過ぎない。読者の理解の為というサービス精神がない。だから、読みづらく、ときには理解不能の文章すら見かけられる。そういうことに慣れていないから、自然と文章がヘタくそになってしまうのであろう。とすると、「岩波新書」はどうなのか。同じように大学の先生がたくさん書いているではないか。

 ここは読者が違うという、はっきりとした目的意識がある。学生とか専門家に読ませるための文章ではないのだ。したがって、編集者の協力もあろうが、読みやすく、分かりやすくに努めて、結果として万人が読めるシリーズになったものである。養老孟司「バカの壁」はその意味でこれを駆使し、読みやすさと分かり易さの結晶のようなもの。

 エッセイの文章の基準はここに極まる。万人が読める言葉であること。

 でも、「岩波新書」に特別の仕掛けがほどかされているとは思えない。ごく普通の文章だろう、と言うだろう。

 ここでは、難しい理屈よりも、個性と文章の識別についてまとめてみたい。

 というのは、文章を書く個人には必ず個性がある。この個性というのは、味覚・聴覚・視角・触覚すべてにわたって、他人と受け止め方が違うから、個性というのである。もし、このような個性をエッセイに応用したとなると、料理の本は、その人のもつ舌の感覚によって、調理されているのと等しい。読者というか、他人の舌の感覚と同じであるはずがない。エッセイとは真実を追求し、その発見の喜びを示すものと規定したら、ことごとく誤差が生じてしまう。甘い感覚は、執筆者の感覚であって、読者の知っている味覚と違うものだ。これではいくら読んでも無意味である。

 万人が共通して認識する感覚とは、こうした個性の違いを脱して、万人の共通認識に変えなければどうしようもないのである。赤は赤、黄色は黄色であって、「わたしのいう赤」「わたしのいう黄色」ではない。

 となると、エッセイは無色透明の個性なしの文章か、と理解されるかも知れない。それとも違う。つまり、いま世の中にある共通して認識できるものがスタンダードとして「基礎」をおき、それをどう判断するか、どう切り開くかは、個人の自由、まあ、それが個性と言えるのである。もう少し言うと、このスタンダードを知らない人はエッセイを書く資格はない。前述のチャットの話だが、あの会話をエッセイにもってくるわけにはいかない。しかし、彼女達は、これ常識じゃん、これしかできない、ということになると、その人はスタンダードが欠落しているわけであるから、エッセイは書けないとなってしまうわけである。

 いささか、へ理屈の話になってきたが、わたしは極力、矛盾なく話をすすめたいと願っているので、このぐらいの理屈は述べさせていただきたい。そして、わたしの知るかぎり、このスタンダードをほぼ獲得している人、内に持っている人はたいへん少ない。知識が中途半端、経験も浅い、基礎がなっていない、これもグチに聞こえてきそうだが、じつに知らないことで大手を振るっている。タレントたちのクイズ番組を見ていると分るが、笑いを堪えるくらい、常識を知らない。タレントという人種には、スタンダードはいらないのであろう。しかし、エッセイを書く人は、スタンダードはかなり持ち合わせているから、職業として認知されるのである。

 事実や真理は調べたら、分るという話だったが、それすらもスタンダードな人であればこそである。大学の専門教育とまでは言わないまでも高校生の基本的知識を持ち合わせて、初めてスタートラインに立てるという話である。

 おそらく、この時点で多くの人が書くことを諦めてしまっただろう。おれには、わたしには常識ないわ、スタンダードと違うわ、と判断したに違いない。その判断はおおむね正しい。再度、チャレンジするなら、高校生をやり直してからして、という話になってくるかもしれない。

 ところで、文章のもうひとつの関門は、「文才」というやつである。これまでのハードルをすべてクリアできるという自信のある人にとって、この二文字の壁は大きい。

 だが、わたしはこう思っています。小説という職業でないかぎり、エッセイには特別な文才はいらない、と。いまもそうですが、「五体不満足」というスーパーエッセイが爆破的に売れている。いまなら「ホームレス中学生」になりますか。これもエッセイ。しかし、乙武クンのエッセイは、スタンダードプラス独自の世界という意味で価値があるものであり、彼がエッセイストとしてなにか努力し、なったものではないと言えます。
 われわれの言う「題材が良かった」という話になりますが、これは、エッセイの真髄である「新しい発見」という扉を示したからなのです。これまで、よく読まれたエッセイを眺めてみると、分りますが、みんな相応の「発見」を示しているのです。

 じゃ、ちょっといじわる。某有名女性タレントの暴露本はどうなの。

 この質問に加えて、弁護士の大平さんでしたか、書かれたエッセイが売れています。なにか両極端の現象のようです。そこで、わたしのような編集を仕事としている人間は、読者のことを考えます。読者はなにを期待しているか、何を読みたいのか、いまシュンなテーマは何か、そんなふうに考えるわけです。

 すると、わたしは読者をこんなふうに分析しました。

1.読者は他人ののぞき見が好きである。

2.常識の世界よりも非常識の世界、別の意味ではウラの世界を知りたい。

3.読者はやすらぎと、いやしを求めている。現実を忘れたいのである。あるいは元気をもらいたい。

4.読者は現実生活を迷っている。何をどうすればいいのか分らない。だから、生きるヒントがほしい。

5.夢物語はもういい。夢ではない、現実の姿をもっと知りたい。

 このように分析すると、先に示した本の売れ行きのいい背景がすべて含まれます。暴露本は他人の秘密を知りたいだけの、野次馬の気持ち、もう一つは、波瀾の人生を乗り切り、生きる勇気を与える。いま、世間で売れているものは、すべてこの中に含まれてくるのではないでしょうか。いやし、迷い、退屈、そういう悩みを解決してくれる本たちです。
 (つづく)

tontonboy, エッセイの作法

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エッセイの作法(4)

   「エッセイの作法」(4) 

       
 ◎発見する喜び◎

 読者の声に応えていくのは、どちらかと言うと、出版する側の都合に聞こえます。書いている本人にすれば、そんな都合や戦略には乗りたくない。あくまで自分のペースで書いてみたいと思うでしょう。なにも職業的要請がここにあるわけではないのだから、という話になります。

 それに誰もがタレントにはなれないし、乙武くんのような人間にはなれない。むしろそういう特殊な人間でない人のほうが圧倒的多数である。

 この話にも一理はある。ただ、わたしはいつも思っているのですが、いまエッセイストという門を構えている人でも、ついこの間までは、タダの人だった。誰かが選んでくれたわけでもないし、最初からそう決められていたわけでもない。どこかがいつからか違ったからこそ、その門をはっていられる。最初からエッセイストだった人はいない。

 つまりは大なり小なり、これまでのエッセイを携えるまでに、見えないところで何らかの努力、辛酸をなめてきたということだと思うのです。多数派から少数になるための、口には言えない苦労があったと思いませんか。

 エッセイを書くという行為自体はそういうことだろうと思います。多数の人がやらないことをやろうとしている人が、エッセイを書こうとしているのだ、と。その意味では、やることはほとんどいっしょ、特殊な訓練をするわけではないのです。

 実際に書いてみると、新しい発見というか、体験をします。これは体が覚えることで、頭から入ってもなかなか身に付くものではありません。この言葉のゆえんも、「身に付く」であって、「頭に付く」とは言わない。身に付くこととはどんなことなのだろう。それは、説明するとこうなります。

 「書いているうちに、自分でも思ってもみなかった発見をする。そのことに自らが感動する」ということです。
 頭の中で彼女のことを思っていても、いざ会うとその半分も口にできない体験をされた人は多いでしょう。これと反対に会っていると、いままで思ってもいないことを口にすることもあり、改めて、彼女の大切さを認識する、こういう体験もあるでしょう。
 つまり、書き始めながら、なにかにぶっつかり、そして思考が新しい扉を開き、文章によって、その世界を切り開いていっているからだとわたしは思うのです。
 まるで言葉そのものが自分の思考の手先になり、行く手を案内し、目的の場所に誘導しているようなものなのです。

 これが言葉を操る、不思議な現象と言ったらいいのでしょうか。このコラムていどのものでも、最初にいくつかの整理をしておいても、いざ始めると、途中にはさまざまの窓が開き、そのたびにちょっと停滞し、そして次に進むという行為を繰り返しているのです。最初からすべての文章が頭にあって、それを書き写しているだけということは絶対ありません。書きながら考え、考えながら、書き進むというパターンなのです。そうすることで、自分が目指そうとしている場所に徐々に光が点り、そこが少しずつ明るくなってくるのを感じるのです。

 わたしは、案外、「書くということ」はこういうことなのではあるまいか。最後まで見通しはついていないが、書いていくうちに、全体に向かって見えてくる。そういうことなんだ、と。

 わたしも書き終わった部分は読み返し、矛盾がないか、整合性はどうか、いろいろチェックしながら、前に進めています。書く体験をされて、自分の思考のスタイルや、いわゆる好調・不調の波もキャッチできるでしょう。ノリの悪いときは、文章のスピードに出てきます。いいときはそれすら関知しないで、どんどん前に進んでいます。
 ただ、こうした現象を名付けるならば、「執筆空間」と言いますか、これは、スタンダードあっての話なのです。いまはパソコンがかなりカバーしてくれるので、引っかかりは少ないでしょうが、原稿を前にし、あの字はどう書くんだった、あの表現何と言ったっけ、という書く以前の引っかかりがあれば、せっかくの「執筆空間」が壊れてしまうか、意識減退もいいところです。この辺りもスタンダードの大切さを分かってもらえるでしょうか。ともかく、テーマオンリーに集中するためには、その体勢を万全にして、立ち向かうべきなのです。

 さて、集中の次に来るものと言ったら何でしょうか。疲労と倦怠というのは冗談にして、前述したような発見、いわば新しい宝物を獲得することなのです。最初に「書き切る」と申し上げたように、書き切るのは一種の満足感を得るためですが、この宝物の発見は、それ以上の出合いなのです。思考の末にたどり着いた、ごほうびと言ったらいいのでしょうか。
 エッセイをモノにした人の喜びは、最初に書き手が味わっています。そしていずれ、読者にこれが伝わる。書き上げた作品の中に、宝物がない、発見もない、感動さらさらなし、とすると、書き手は「ああ、疲れた」で終わりなのです。そうでない場合は、満足であり、ひょっとすると、その興奮のためにしばらく目がさえて、眠られぬかもしれません。そんな体験されたことありますか。素晴らしいラブレターが完成すると、何度も何度も読み返し、自分で感動し、彼女もきっと……そういう体験もなし?

 このへんで一回分の分量に達した。つづきは次回に。

tontonboy, エッセイの作法

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エッセイの作法(5)

  「エッセイの作法」(5) 

        
 ◎思考の回路を開く◎

 そろそろラストスパートである。

 エッセイについては、書いている本人の気持ちがストレートに出やすい。なにもそこで演技する必要はなく、自分をぶっつけてこそ、事実が真理を解き明かすという仕掛けです。この場合、自分の気持ちと向き合ってください。平常心、あるいは満足(食後のときとか)している状態は、いいタイミングではない。いいタイミングとは、自分の感情が表面に出ているときです。怒り、悲しみ、笑い、なんでもいいですから、そういう感情にひたっているときというのは、じつは一番、自分の気持ちが手に取るように分かるものであり、それらを文章化すると、素直に出てくるものなのです。

 わたしの体験からすると、訃報の知らせです。定型の知らせではなく、私信として伝わったとき、不意の訃報である故人の思い出がいっきに溢れて出てくるでしょう。それまで思い出すことも考えることもしなかったのに、一通の便りがもたらした、この劇的なこころの変化、これぞ、絶好のタイミングなのです。ところが、そんなときは書くこころの余裕はありません。うろたえるか、呆然自失の自分があるだけでしょう。だが、この状態を書く段階に「もう一度、再現させる」のです。

 嘘か誠か知りませんが、人は死のまぎわになって、自分の人生を一瞬にして、走馬燈のように思い出すと言います。記憶の回路に火花が散ったというのでしょうか。この圧倒的瞬間が、間際ではなく、普段、起こる現象ならば、人間はもっとすごいものを書いているとわたしなどは思ってしまいますが、少なくとも、書き手のテンションはこのぐらいでなくてはいけません。沈着冷静、とんでもない。こんな悟りの境地になって、ものが書けるものではありません。悟りではなく、さまざまの雑念、欲求、願望、不満、いろいろの思考が頭を駆け巡ることによって、脳は活性化し、次に新しい思考の回路へと向かっていくものなのです。

 ところで、わたしたちは、いつも精神的に安定しているか、不安定か、あるいは無意識かと問われたとき、どっちの状態が多いか考えたことがありますか。これは自分の思考の状態を知る上でもっとも肝心なことなのです。頭の中で考えていることを口にして言えるか、それとも舌足らずであるか、饒舌になるか、自分のキャラクターはどっちなのだろうと考えたことがありますか。
 ある作家はなにかの挨拶のとき、思考したことをすらすらと言い、そしてそれを原稿に書きまとめても、ほぼ同程度の完成度があると言います。これはどういうことかと言いますと、思考=言葉の連係がほとんど同一レベルに達しているからということなのです。普通の人は、おしゃべりひとつとっても、思考の回路はあっても、さらりと通過しているので、話が矛盾していたり、チグハグだったり、内容があまりない、希薄なものになりがちです。しかし、普段から思考がしっかりしている人は、あいさつのごとく、ほとんど考え通りの発言が可能なのです。

 わたしの場合、あいさつ原稿というものを予め用意しておくということがありません。その場で、適当に言うということもありません。やはり、前日から、あいさつで言うべきことを頭の中で整理し、その筋書きを思考によって組み立てておくのです。そうすると、いざ本番のとき、その回路を開き、用意していたものをおしゃべりするという具合なのです。エッセイの書ける人は、まあ、訓練とまではいきませんが、こういう思考の連係がうまくとれている人、と言わざるを得ません。世間の言うところの、ツボをこころえているというのは、おしゃべり上手となりますが、この人たちの、そこに至るまでの思考の連係がそういうことになっていたからと理解されます。

 そして、これが言葉の魔術師のような芸当までに仕上がってくるのです。この尊称を与えられた人に小林秀雄がいます。文芸評論家という分野の人ですが、この人の書いたものは、それまでの文芸評論というスタイルをはみだし、言葉が勝手に、世界を構築しているような、そんなダイナミックな手法だったと記憶しています。評論はエッセイとは違いますが、ついこちらのものは、理論を積み重ねて、結論を導くという、正統的手法しか思い付かないのに、小林秀雄には最初から、この先人の歩んだ道を通らず、独自の世界を闊歩してきたような人なのです。

 エッセイで鮮烈な思い出がある人は、柳田邦男でしょうか。ジャンボ機墜落の真相に迫ったもの、あるいは脳死のことに踏み込んだ立花隆のような人など、この分野で仕事をした人というのは、これまでのエッセイの手法をさらに大きく飛躍させたとわたし個人は思っています。こういう人たちの仕事を、あるいは著作を少しでも多く読んでみるというのも、自分にとってのヒントになるのではないか。この人たちの思考のスタイルというものを知るだけの価値はあると思われます。

 これから、エッセイのひとつでも書いてみたいと思っている人にとって、意外と映るのかどうか、エッセイそのものは自意識や思考が高いテンションによって、意図的に書かれたものであるということは、小説のように創造性・想像性という質のものを求められるのと、だいぶ様子が違うということなのです。むろん、事実から踏み出したものがある真理に辿り着くまでに駆使される思考の回路そのものは創造的であるのかもしれませんが、それ以上に自分がテーマに出合い、そして、下調べをし、構想を練るという作業を通じて、世界の扉を開けるという素晴らしさには、なににも変えがたいものなのです。

 その意味で、言葉は魔術師でしょう。ペンは剣より強し、とも言います。

 自らにどれほどの「強いペン」をもっているのか、確かめる必要があります。そんな場合は身近なところから、思考をめぐらしてみることです。最近では介護のこと、セクハラ、そうそう地震もありますし、IT革命なる言葉も流行っています。で、それらの事柄に対して、自分の思考はどこまでついていき、展開できるのか。きっと、材料不足、情報不足と気づかれることでしょう。じつは知っていること、人に語れるほどのものはあまり持っていないのだ、いわゆる中途半端なんだ、と気づき、反省するのが関の山。だが、エッセイが書きたいとなると、その山を乗り越えて、さらに自分の論を展開したいとなれば、やるべきことはもうお分かりいただけますね。

 この論考は技術論というより、精神論に近いものになってしまいました。技術的なことは、前の「小説の作法」で少しふれておいたので、繰り返したくないといういう気持ちがあったみたいです。とくに言葉そのものについては、前述のもののほうがまとまっているので、参考にされたらと思います。

 最後に、エッセイとは、事実をしっかり受け止め、自分の感情ではなく、もっと目を見据えて、その裏側に隠されている真理をさぐるという姿勢を忘れないということだと思います。事実には、いわゆる「結果」だけが現実世界に示されています。人であれ、ものであれ、現象であれ、事実がまず先に存在しています。そして、この事実がなにかを言おとしている。それはなにかとの問いかけです。ドキュメンタリー番組で、交通事故の捜査官が路面にはいつくばって、事故の痕跡を捜そうとしている姿は、感動的ですらありました。どんなに小さな事実でも見のがさず、その「結果」はなにかの原因によって、発生したのだという確信があのような捜査方法になったものと考えます。これは基本中の基本なのでしょう。

 エッセイもまた、基本から逸脱した方法はありません。真理に辿り着くのにそう簡単に手っ取り早い方法があったら、逆に教えてほしいくらいです。でも捜査官もそうであったように事故の犯人を捕らえ、被害者の悔しさを晴らす一助になったということがその仕事をやりがいのあるものにしているはずです。

 真理を問いつめるというエッセイストの仕事は、その意味で貴重な、社会にとって価値のある仕事とわたしは思っているのです。 (おわり)

tontonboy, エッセイの作法

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